失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】
退院
その日は退院の日でもあった
僕と兄の約束の日
それは新たな終わりの日
僕が空中に足を踏み出すその日
だった
我慢じゃなく
諦めでもなく
自棄でもない
逃避ともちがうそれ
僕のいわば
義務
なすべきこと
欲望を越え恐れを退け
愛着を手放して行き着いた先
今日兄に告げようとしてる
僕のそのままを
久しぶりに四人の和やかな食卓で
僕の退院の日は彩られた
僕の家族の底に固まっていた
氷のような悲しみが
溶けて流れているような
穏やかな食卓だった
お互いが何の話を
大声で騒ぎ立てるでなく
それぞれが互いの存在を喜んでいた
こんな日が来るなんて
想像もつかなかった
皆が緩やかに時間を楽しみ
微笑んでいた
今までの悪夢が全て相殺されていく
僕はこの一日が僕の人生を飾り
きっと死ぬまで忘れないだろうと
心に深く感じた
夕食は終わり
僕と兄は
約束通り二階の僕たちの部屋へ
上って行った