失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】
「兄貴…いま…なんて…?」
兄は答えなかった
ただ兄の目からはらはらと涙が
床の上に落ちていった
「なぜ…?泣かないでよ…だって…
兄貴が…兄貴がそれを望んでたん
じゃないの?」
僕は兄の反応にうろたえた
兄は黙ったまま涙を落とし続けた
「僕が…手首を切っても…兄貴は
僕を解放するって…だから」
僕は椅子から立ち上がり
兄の足元に座りこんだ
「兄貴…泣かないでよ」
兄の止まらない涙の意味が
分からない
一言も言わないでただはらはらと…
「…僕がようやく兄貴の気持ちが
わかったから?安心したから?」
兄が手で顔を覆う
指の間から涙がこぼれて
兄の手首に伝い
シャツの袖を濡らした
「兄貴…」
「どう…したら…いい」
「えっ…」
「どうすれば…」
兄の苦痛に充ちた声が
「どうすれば…どうすれば俺は…
お前から…離れられる…?」
「あ…に」
兄が嗚咽で肩を震わせる
「だめだ…決めたのに…俺は…
決めたのに…!」
兄の嗚咽はしばらく続いた
話すことも出来ないほど
僕はどうすることも出来ず
ただ兄のそばにいるだけだった