失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】




だけど

どうしよう

昼飯すら二人と一緒に

食べることが出来ずに

呼びに来た母に寝た振りをした

ウソをつく気力がもうない

僕の退院した日のあの食卓が

まるでマボロシのようだ

…親父に

母さんに

顔をあわせたくない

あわせられない

こんな深い溝を僕は知らない

僕と兄が形の上だけは関係を

リセットしているにも関わらず

状況はなにひとつ良くはならない

たとえ僕があの人を選んでも

なにひとつ好転はしない

僕が同性愛者だという証明にしか

ならない

僕のいま一番の苦痛は

これからすぐ夕飯に

二人と食卓を囲むことだ

なぜ連休なんだろう

兄とは逢えない

彼は去った

なのに時間と重荷だけがある

重荷?

そんな生易しいものじゃない

焼き印

そう兄が言った

消すことが出来ないから

だから焼き印なんだ






僕の心と頭の中は無限ループに

陥っていた

家族への罪悪感と

兄への封印しかけていた想いと

兄と父の関係がどうなってしまうか

という恐怖と

人生の虚無とが

果てしなく巡りまた元の場所へ

繰り返し繰り返し悪夢のように

戻ってくるのだった

戻ってくるそれらには

どこにも出口がなかった






僕の頭と心が押し潰されていく

本当に気が狂いそうだ

突然吐き気が僕を襲った

僕の限界はいつも早い

口を手で押さえ

手すりにすがるように階段をおり

トイレに入り

そのまま嘔吐した

胃の中は空で

朝から水さえ飲んでいないことに

ようやく気づく

胃液しか出ない

喉と口の中が酸で焼ける

吐くものもない苦しい嘔吐が

しばらく続いた

洗面所で水を飲む

その水をその場で吐いた

「お前…具合悪いのか?」

いつの間にか後ろに父が立っていた

「…」

僕は凍りついた

それも束の間

激しい吐き気が再び僕を襲った






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