失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】
兄のケータイの呼び出し音が
耳の中で繰り返される
アドレナリンで身体が震えている
兄はなかなか出ない
とてもとても長い時間に感じる
早く…早く出て
お願いだから
祈るような気持ちで
呼び出し音を聞く
出てよ…どうしたらいいんだよ
その時呼び出し音が切れた
「…はい」
兄が出…た
「あ…兄…貴」
「……」
なぜか兄は黙ったままだった
「兄貴…なにか…あった…?」
僕はそれをどう問い掛けたら良い
のか分からないまま途切れ途切れに
兄に言葉を並べていた
だが兄は依然として
黙ったままでいた
「兄貴…? 聞こえてる?」
「…ああ」
ようやく兄は口を開いた
「どうしたの?なにかあったの?」
長い沈黙のあと
兄は短く言った
「メール…した」
「さっき見た…ごめん…ケータイ
見てなくてさ…今から行くから」
「…来て」
「うん」
「じゃ…」
兄はケータイを切った
僕はなにも聞けなかった
なにがあったんだろう
兄の沈黙が怖かった
兄が僕に来てというなんて
今の状態では有り得ないことなのに
僕の心は兄に逢える切なさと
待ち受けているかも知れない
まだ見ぬ最悪の事態への恐怖とで
嵐の中の紙屑みたいだった