失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】
嫉妬
母のリクエストに応える形で
しばらくして兄は
再び僕たちと共に暮らし始めた
僕の狭い部屋が再び
“僕たちの部屋”になった
問題はなにも解決していない
にも拘らず僕は安らかだった
長い過酷な日々を越えて
僕の心はようやく休息を得た
それは兄も同じだった
「なあ…走りに行かないか?」
ある日の
夕食もとっくに終わった夜中
兄はそんなことを僕に言った
「え?走るって…ジョギング?」
「そう…最近筋力落ちてヤバいし」
兄は高校時代は陸上部だったので
大学受験中も毎日走っていた
大学に行ってからは
三日に一度は走っていたが
この一年あまり
つまり兄の父親が倒れた頃から
兄は走らなくなっていた
「うーん…確かに兄貴痩せたよね」
「あのふくらはぎが懐かしい」
兄はスエットの裾をめくり
自分の脚をしげしげと眺めた
「張りが…ないね」
「ああ…悔しいがお前の言う通り」
そう言って兄はやおら立ち上がると
おもむろに押し入れから
ジャージの上下を引っ張り出した
「本気?」
「ああ…お前も付き合え」
「僕も?」
「ミュージシャンは体力が命」
「そうだけど…」
「二人で走りたいんだよ」
兄は僕を見上げた
その目が妙に可愛くて
僕は吹き出した
「兄貴…おねだり?」
「いけませんか?」
兄貴がおねだりした!
僕に!
「わかった…行きます…走ります」
「おぉ…やった!途中でアクエリア
スおごってやる」
僕はスエットとパーカーに着替え
ウキウキとメンド臭いの
両方を半々に従えて
兄と夜中のジョギングに出かけた