失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】
「早く起きろよ…」
後ろを向いたまま兄が言った
僕は思わず半身を起こして
兄の背中を見上げた
「どうしたの?」
兄は背中を向けたまま声を落とした
「…襲いたくなるだろ」
う…うわぁぁ
ダメでしょ…それも反則だし
「アクエリアスおごってやるから…
早く立て…歩け」
僕は猛然と起き上がり
スエットの砂利を払いながら
自販機に向かう兄のあとを追った
まばらに街灯が灯る広い公園の
屋根付きのあずま屋のベンチに座り
二人でアクエリアスをゴクゴクと
飲んでいた
兄は僕とあまり目を合わせずに
ベンチにもたれ遠くを眺めていた
兄のシルエットが弱い外灯の光に
ぼんやりと照らされている
憂いのある横顔
それが何か物言いたげに
切れ長の目が少し伏せられ
何かを切り出したいのを
兄自身が自分を待ってるような
そんなためらいを感じていた
見とれてしまう…
苦悩すればするほど美しく見える
あの人も知ってたんだろうな…
なぜかいきなり彼を思い出して
少し戸惑った
初めて見たあの日のあの部屋の二人
蝋燭の炎が妖しく揺れる中で
二人はとても…綺麗だった
不意に兄が呟いた
「…ダメだな」
「…なにが?」
僕も咄嗟に尋ねていた
「ひとつ苦痛が終わるとまたひとつ
違う苦痛が始まって…それが終わっ
てもまた…思いもしない苦しみが
待ち受けていて…」
兄は顔を伏せた
「終わらない…」
兄がフッと苦笑した
「なにを…苦しんでるの…」
僕は急に不安になり兄に尋ね直した
兄はベンチの上で片膝を立て
その膝を両腕で抱え顔を埋めた
「嫉妬」
兄はひと言そう言った
「兄貴…」
「ん…」
「彼の…こと?」
兄は無言でうなずいた
驚いたことに僕はそれを聞いて
とても意地悪な気分になっていた