失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】
どうしたんだ?
ヤツに何が起きたんだ?
ああっと…演奏に集中しなきゃ
僕はミスりそうになりながら
ヤツの突然の変わり様を見ていた
その時ヤツの目から
涙が一筋伝うのが見えた
そして演奏中の僕らの前で
両手で“やめー!”の合図をした
「なな…なに?間違えた?…え?
お前泣いてるのっ?」
予想外の事態に演奏を止め
驚いた先輩がヤツに訊いた
「ごめん…オレ…歌うわ」
ヤツはナヲさんの顔をじっと見て
そう言った
「スミマセン!代役失格ですか」
「違うんだ…一緒に歌ってよ」
「え~っ?」
今度は彼女が慌てた
「…はは…驚いた…そっくりだ」
ヤツが呟いた
えっ…それって
もしかして
先生…と?
「な…なに?」
先輩が聞き返す
ヤツはそれには答えなかった
「一緒に歌ってよ」
「ええ…良いデスけど」
ヤツはスタンドのマイクをつかんだ
「じゃあ…はじめからやって」
「ハイッ」
「ま…あ…良いけど…泣くほど感動
したわけ?」
先輩は不思議そうな顔で
僕の顔を見ながらスタンバイした
再び前奏が始まる
ヤツは目を閉じていた
マイクに手をかけたままのその姿は
まるで祈ってるようだった
奇跡だ
僕は胸が熱くなるのを感じていた
今からヤツは
天国の先生と一緒に歌う
君にこの愛をあげる
誰にもわからないように
二人の声はユニゾンなのに
融け合うように響いていた
ヤツの歌う声が前と違う
それは僕だけではなく
メンバーの心に届いていた
「先生呼びに行ってくる」
先輩が嬉しそうに部室を出た
録音出来る
ヤツはマイクスタンドに
つかまったまま
放心した顔で立ち尽くしていた
僕の目も潤んできそうになり
あわててまばたきをしてごまかした
ありがとう
僕は奇跡を見せてくれた
大きな何かに心の中で囁いていた