失われた物語 −時の鍵− 《前編》【小説】
下の階におり
洗面所で鏡を見た
泣き腫らした目と寝不足のクマ
そして手や顔についた兄の血
シャワーを浴びた
シャワーの中でまた泣いた
このしばらくの間で僕は
一生分の涙を流したように思えた
だけど…
きっとまだ泣く
発作でのたうち回る兄を抱いて
僕はまた…涙が止まらなくなるんだ
壁のタイルに手をついて
シャワーを頭からかぶったまま
しばらく僕も動けなかった
あれだけだろうか?
兄の発作はもっと酷いのではないか
切っ掛けがあればあの悲惨な時間を
兄の記憶はフラッシュバックする
そうじゃなくてももう既に
兄は幼いころからの虐待と
母との無理心中のトラウマが
深く刻まれている
今まで内気で
人付き合いが苦手なぐらいで
社会生活をこなしてこられたのは
気丈な兄の性質かもしれないが
すべてを心に押し込んで
それだけのトラウマに耐えて
この世で生きている兄は
不意に兄の言葉が甦る
「生きていくことが俺には悪夢…」
兄はあの事件がなくても
内側は崩れ落ちんばかりだった
僕だけが知ってる兄の心の中の廃墟
もしかするとこれが切っ掛けで
兄のもっと古い過去の傷が
地滑りを起こして崩壊するかの様な
殺伐とした恐怖に襲われた
熱いはずのシャワーの中で
僕は凍り付くような寒気を覚えた
取り越し苦労だと
ただのネガティブな妄想だと
誰か僕に言ってくれ…
浴室にシャワーの音だけが
響いていた