見えない糸
思い詰めたような顔をして、キッチンの入り口側に立っていた。

「どうした?」

直次は紗織をチラッと見て、ソファーに座った。

紗織は何も言わないまま、直次に近付いてきた。

「どうしたんだ?何か言いたい事あるのか?」

ビールをテーブルに置いて聞いた。

「オジサン…」

直次の隣に座った紗織が、小声で言った。

「どうして記憶の治療をするの!?」

「言っただろ、記憶が無い状態は普通じゃないんだって」

「本当に、それだけなの?」

目に涙を浮かばせて聞いてくる紗織を見て、直次は驚いた。
 
「どうしたんだよ、そんな心配する事じゃないだろ?」

紗織の頭をポンポンっと叩いて、テーブルに置いたビールを取り、一口、二口飲んだ。

「オジサンは、アタシの事キライ?」

「え?」

「追い出したくて治療を始めるの?!」

「何でだよ…何でそう考えるんだ?」

「だって…記憶が戻ったら、オジサンと離れなくちゃならないんでしょ?」

紗織は下を向いて、とうとう泣き出してしまった。

「記憶が戻ったから紗織を追い出すなんて、絶対にしないよ。紗織が自分から離れていくのなら別だけど…俺は紗織の父親なんだからさ」

「オジサン!」

紗織が直次に抱きついて言った。

「お願いだから…記憶が戻ってもアタシをここに置いて!」

何でそんなに心配するのか、そんなに記憶を戻す事が怖い事なのか分からなかった。

記憶がないまま、自分の生い立ちも分からないまま生きていく方が、どんなに寂しい事だろうと思って治療を勧めたのに、こんなに恐怖心を抱くものかと思った。

患者の思いは患者しか分からない。

紗織の気持ちは、紗織しか分からない。

直次の思いも、直次しか分からない。

それでも分かってもらう為に、何度も話し合わなければならないのだ。


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