見えない糸
「ただいま」直次の声に
「お帰りなさい」と、リビングから声が聞こえた。
元気よく紗織が玄関に出てくる。
「お勤めお疲れ様でした」
ニコッと笑う紗織に、さっきまで小谷の家で起きたイラつきが吹っ飛ぶようだった。
「待たせてゴメンな。用意するから、もう少し待ってくれ」
直次は急いで階段を駆け登った。
鞄から携帯電話とタバコを取り、ポケットに財布を入れて、部屋を飛び出した。
途中、階段を踏み外しそうになりながら、紗織の待つ玄関に向かった。
「そんなに慌てなくても...」
紗織がクックッと笑いながら言った。
「階段から転げ落ちなくて良かった」
直次も笑いながら言った。
自宅から歩いて行ける距離に居酒屋がある。
そこは良く行く馴染みの店だ。
「いらっしゃい!直さん!」
店主は直次を『先生』ではなく『直さん』と呼ぶ。
昔からの付き合いがあるから、この呼ばれ方が心地いい。
「どーも、イッチャン」
直次は店主を『イッチャン』と呼ぶ。
名前の伊勢さんから、イッチャンと呼ぶようになった。
店内にはカウンターに6席、小上がりがあって、小さめのテーブルが3つ。
壁にはホワイトボードに【本日のオススメ】として、メニューが書いてある。
直次と紗織は、一番奥のカウンター席に並んで座った。