見えない糸
紗織は二人分のコーヒーをテーブルに置くと、また直次の隣に座った。
「先生、今まで本当にありがとう」
直次の顔を見ながら微笑む彼女の目には、涙でいっぱいだった。
「どうして泣いてるんだよ?」
その涙は、過去の糸を掴んだ『感謝』の涙なのか?
それとも、過去を知ってしまった『後悔』の涙なのか?
直次は不安だった。
「先生…多分アタシ、これで良かったんだと思う」
「何が?」
「記憶を戻す治療をしたこと」
「本当に、そう思ってくれてるならいいけどな…」
「本当よ!本当…」
「それなら良かったけど」
直次はコーヒーを一口飲んだ。
『良かった』という割には、浮かない表情の紗織が気になる。
記憶を取り戻す治療は、消してしまいたい記憶も呼び起こしてしまう。
都合良く『ここだけ』とはならない。
紗織は、消えたままで良かった記憶も、見つけてしまったのかもしれないな…
すっかり明るくなった外の景色と真逆の空気が、直次の周りを取り巻いていた。
こんな時までも、タバコを吸いたいと思う自分はバカなのか?
こんな時だからこそ、タバコを吸って落ち着きたいと思う自分は、単なる『逃げ』なのか?
紗織より遥かに度胸のない、情けない男だ。