椿戦記
 椿は李漢を追ってきたことを後悔した。
 目の前で、自分に長剣を突きつける男に、椿はどうしても動くことができなかった。
動かなければ殺されてしまうと理解しているはずなのに、身体は全くいうことをききそうもなかった。
 男がためらいも容赦もなく長剣を振り下ろしてきた途端、椿はとっさに身を捩っては先をかわし、ようやく自分の身体が動いたのを感じた。
反射的に短刀を抜き放つと、男が次に長剣を振り下ろしてくるのに合わせて、体制を低くして懐に飛び込んだ。
短刀を男の腹につきたてようとした途端、椿は胸に激痛を感じて、蹴り飛ばされた。
夢中で空中で受け身をとり、地面に叩きつけられる衝撃を逃すと、そのまま反動で一回転し、立ち上がると同時に再び身を捩って男の繰り出す激しい突きを避けた。
 とたん、右足が、横に滑った。
湿った落ち葉が足場を悪くしていることを、椿は見落としていた。
体制が崩れ、バランスを失った椿は振り下ろされる男の長剣に、死を覚悟した。

 ドンっと鈍く重い音がして、目の前で優勢に立っていた男が、目を見開き、自分に倒れ掛かってくるのを感じた。
 自分の左手に握られていた短刀に、じゅぶりと固く柔らかいものが突き刺さる感覚と、むせ返るような血の匂いに押しつぶされ、椿は茫然と自分が地面に押し付けられるのを感じていた。
断末魔の痙攣に体を震わせる男の体温が、徐々に下がっていくのを、彼が死体と成り果てるのを、椿は長い時間をかけて理解した。

 半ば気を失ったようになっている椿を、李漢は死体の下から引っ張り出し、頬を叩いた。
椿には何も見えていなかった。
人を刺殺したのは、初めてではなかった。
刃に肉が刺さる感覚が蘇り、椿は必死に息を吸った。
意識とは別の何かが、椿が悲鳴を上げるよう突き動かした。

「おまえじゃない、おまえじゃないんだ椿。あいつは、あの男は俺が後ろから刺し殺したんだ。あいつを殺したのはおまえじゃないんだぞっ―…」

 李漢は無我夢中で悲鳴を上げる幼い娘を、必死に抱きしめた。
彼女の心が遠くへ行ってしまわぬよう、強く、強く、抱きしめた。
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