ジュリアン・ドール
「メアリー、パンが焼けたぞ」


店の主人の掠れた声と同時に厨房の扉が開けられ、清潔感のある真っ白な白衣と白い帽子といった格好の、痩せた小柄の主人が、焼きたてのパンを乗せた大きな鉄板を両手で抱えて現れた。


「エヴィさん、お久しぶりです」



ハーリーは、礼儀正しく頭を下げた。



「これはこれはハーリー坊っちゃん、久しぶりでございます。」



エヴィは、急いで鉄板を棚の上に置き、白い調理帽を脱いで、礼儀正しくハーリーの挨拶に答えた。


「その、坊っちゃんっていうのはやめて下さい。ずいぶん昔の話ですし、この歳で恥ずかしいですから、ホント、自分のことなんかメアリーみたいに気さくに呼び捨ててやって下さい」


ハーリーは、今は訳あって貧しい生活をしている事も含め、大の大人になってまでも坊ちゃんと呼ばれるのは本気で恥ずかしいと思い、周りに聞かれていないかと思わずキョロキョロと周りを気にしながら言った。


「そ、そうだったな。お互い労働者同士だからって何度も言われてたっけ。すまない。ついつい昔のままの呼び方をしてしまうんだよ。今日は新商品が出たんだが、今回のは自信作なんだよ、ハーリー。君なら好きなだけパンを持って行っても構わないよ」

「エヴィさん、そんなお気遣いして頂かなくても・・・・・」

「いいんだよ、ハーリー。君こそ、職場の癖かわからないけど、こんな私目にさん付けしたり、敬語なんかやめてくれ。」

「・・・それも、そうですね。ははは」

「さあ、今食べてくれ。試食第一号だ!」



エヴィが運んできたばかりの鉄板から、まだ熱いパンを手に取り、パンを二つに分けて、ハーリーに差し出した。すると、パンの割れ目からはオレンジ色のジャムが溢れて来て、そのジャムの香りが、遠慮がちなハーリーの理性を掻き乱してしまう。


馨わしいパンを目の前に、ハーリーは喉を鳴らし、知らずのうちに、その手は差し出されたパンへと伸びていた。


パンをちぎり、口へ運ぶ。



「どうだい?美味いかい・・・?」

メアリーが横からハーリーの顔を心配そうに覗き込んだ。



「・・・・・」

 ハーリーは、黙ってパンを味わっている。



「・・・・・その、ジャム、あたしが作ったんだよ」

「・・・・・」



メアリーは心配そうに、ハーリーの返事をせかしている。


ハーリーは、口の中に充満するジャムの甘みと、パンの香ばしさの程よい味わいの、余りにも美味いパンの味に、今にも頬がとろけ落ちてしまいそうな感覚で、顎の力をすっかり無くしてしまっていた。



美味い・・・・・!しかし言葉が出ない。



「何とか言っておくれよハーリー、味はどうだい?」


メアリーの声に、慌ててハーリーは縦に首を振って見せた。


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