運 命
 3時半きっかりにピアノは終わった。案の定私は5分ほど遅刻したが,先生は「次からは絶対に遅刻しない」という誓いをたてさせるだけで許してくれた。
そっと安堵のため息をつきながら教室を出るとほぼ同時に,私の前を1人の男の人が通りかかった。
「あ…」
思わず,自分だけに聞こえる声でつぶやく。
その人は,ここの音楽教室でギターを教えている先生だ。ちなみに,私がピアノを習っているこの音楽教室は,他にもバイオリン,ドラム,フルートなど様々な楽器を習うことができた。その分講師もたくさんいるわけだが,どういうわけかギターの先生だけは頻繁に目にしていた。
名前は,知らない。知る術もない。話したこともない。
けれど私は,ギターの先生に淡い淡い恋をしていた。30代半ばという私の読みがあっていれば,高校3年生の私とは相当年が離れていることになるけれど―…。あの優しそうな笑顔。髪は私より長くて,ひとつに束ねている。そしていつも,ベレー帽をかぶっていた。今時ベレー帽,と思うかもしれないが,そのギターの先生にはとても似合っていて,違和感なんてかけらも感じない。
ピアノの教室の前で立ち尽くす私は,去りゆく先生の背中を,いつまでも見つめていた。
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