桜雨
その日の夜、
彼はある吉原遊郭の一角にある、待合茶屋の一室にいた。
部屋は薄暗い。
その真ん中には、豪勢な一人分料理が用意されている。
「藤條さまぁ」
彼が座敷の上で、料理を口に運びつつ、注がれた酒を飲む傍らで、
美しい着物に身を包んだ花魁が、甘い声で彼の名を呼ぶ。
「どうした、千代恵」
千代恵と呼ばれた花魁は、空になった猪口に酒を注ぎながら、
彼の顔を覗き込んだ。
「今日、何か嬉しい事でもおありになったのですか?」
「何故そう思う?」
彼女の赤い紅がひかれた唇が、妖艶に光る。
「だって、今日の旦那様は、いつも以上に良い男だもの」
2人きりの座敷、
花魁は彼にすり寄るように近づき、右腕に寄り添った。
「・・・ねぇ、旦那様」
その甘く可愛らしい声は、遅効性の毒のように、じわりじわり、と男を痺れさせる。
千代恵、吉原遊郭では有名な花魁の一人だった。
身目麗しく、それでいて機知に富んでおり、
彼女に気に入られるために、足繁く通う客も多い。
しかし、彼女のお眼鏡にかなう男はそうそういなかった。
だからこそ、彼女の馴染みの客となれるのは相当に名誉なことだった。
その数少ない馴染み客の一人が、彼だった。
かたん、と彼がお猪口を食事の置かれた台の上に置いた。
そして、彼女が絡みついた腕を彼女の腰へと回し、
反対側の手を、彼女の背中へと回す。
ゆっくりと、彼女の瞳に自分の瞳を合わせる。
「旦那様、お身体が熱くていらっしゃいますね」
「どうも今日は、酔いが回るのが早い」
ふっと彼は笑いながら、その唇を、真っ赤な唇の上に合わせた。
乱暴のように思われるその舌は、それでいてどこか優しい。
千代恵は、濡らされた唇の感触を味わいながら、ふとそんなことを感じていた。