桜雨
「それより」
夏が近づいていたその頃、空気は少し湿っぽく、
しばらく歩けば、汗ばむほどだった。
「進路希望書出した?提出、今日までだよ」
彼はどちらかと言うと、少し間抜けなところがあった。
提出物を忘れることも多いし、
締め切りを忘れることも良くあった。
そのため、彼女はしょっちゅう、彼の注意を喚起するために、
締め切りの日を改めて何度も伝えてあげたりしていた。
「あぁ、そうだ、忘れてた!」
これがいつものリアクションであるし、彼女もそのリアクションが返ってくることを
予測していた。
が、
その時だけは、彼女の予想を彼が裏切ることになった。
「先週中に出したよ」
「・・・え?」
驚いて彼女が顔を上げると、
そこには日ごろの練習で黒くなった顔に、まっ白い歯が目立つ笑顔があった。
「なに、自分が忘れてたんじゃないの?」
「な、・・・違うよ、一緒にしないで!」
彼女は少し怒って、少し早足で歩きだす。
「あはは。ごめんごめん」
彼が笑いながら彼女の後を追いかけて行った。
緑の薫りを漂わせる夏の風が、2人の間を通り抜けて行った。
桜の木は、すでに葉桜となってしまっている。
それでも、爽快な風に吹かれて、緑色の葉を揺らす、
それが青い空に映える景色は、今でも彼女の心に残っていた。
いつもの通学路、いつもの朝。
そんな他愛ない風景こそ、彼女にとってみれば、大切な時間なわけであって。
今思えば、それはあまりに退屈で、幸せすぎた時間だったのかもしれない。
そして、後悔するのだった。
なぜ、気がつかなかったのか、と。