Fahrenheit -華氏-
■Congress(会議)
六月に入ってから、柏木さんの身辺が慌しくなった。
朝早くから出社(これは変わらない)して、一日中パソコンに向かってTOYOエクスプレスの造船入札の件で、ずっと国際会議に参加している。
会社のパソコンでは足りないのか、自分のノートパソコンを持参してくるしだいだ。
ヘッドフォンマイクを装着して、腕と脚を組み、背もたれに深く背を預け、しきりに英語で会話している。
「No!No no no!The price is very impossible. No Earthly Business!(いいえ。その価格では無理です。お話になりませんわ)」
強気だな……
俺は唖然とした。
全体的な会話は分からないが、俺にも単語を拾って訳すことはできる。
価格を吊り上げる巧みな交渉話術。
ぎりぎりのラインで繋ぎとめる、危うい駆け引き。
うまいな……
正直にそう思った。
柏木さんは接客は苦手と言っていたが、その気になれば俺なんかよりずっと使えそうだ。
佐々木はそんな柏木さんを見て、呆然と手を止めてる。
「佐々木。手が止まってるぞ」
俺が注意を促すと、佐々木は、はっと我に返った。
「すごいですね、柏木さん。本領発揮って感じですかね?」
柏木さんの集中を邪魔しないように、気を遣いながら佐々木は小声で囁いた。
「そうだな。ま、お前もがんばれ」
気の無い返事を返して俺は席を立った。
「どこへ行くんですか?」
「秘書課に呼ばれてるんだよ。この間の稟議が通ったみたいだから」
正直稟議書なんていつでも良かった。
でも、柏木さんの傍にいても俺が彼女を助けてやることもできない。
その無力さと、押し寄せてくる焦燥感にさいなまれてこの席に居るのが居づらい。