Fahrenheit -華氏-
「…………」
一瞬の沈黙があった。
柏木さんは俺に背を向けているので、どんな表情をしているのか分からない。
「ご、ごめん。図々しいね。気にしないで…」
「いいですよ。瑠華って呼んでください」
「へ?」
「その方が盛り上がるっていうのなら」
いや…盛り上がるとか、そういう問題じゃなく……
ただ、呼びたかったんだよね。
瑠華って。
何だろ……
俺、今まで人の呼び方に関して特にこだわりとかなかったし、向こうから何々って呼んでね、って指摘があるからその通り呼んでたけど。
柏木さんの名前を呼ぶことに、こんなに意味を感じてる。
会社の中での“柏木さん”じゃなくて、今は俺だけの“瑠華”という女で居て欲しい。
そんなこと思うなんて……俺は変なんだろうか……
そんなことをぼんやり考えてたら、柏木さんがごそごそと身動きして振り返った。
ベッドに入って初めてこっち向いてくれたけど、柏木さんの表情はどこか怪訝そうだった。
「……どうした?」
「あ…いえ。起きてらしたんですね。急に静かになったから、寝ちゃったかと思いました」
俺は思わず苦笑いを漏らした。
「いや。さすがにこの状況で寝ないっしょ」
俺の言葉に柏木さんはうっすら笑い、俺の頬をそっと撫でた。
ひんやりと冷たい手だった。