Fahrenheit -華氏-
『ありゃ男で痛い目を見たとみえるな』
『妻子持ちと不倫でもしたんじゃないか?』
以前裕二がタクシーの中でこぼした言葉をふいに思い出した。
柏木さんをこんな風にさせたのはきっとその不倫相手に違いないだろう。
女に、
「もう恋はしない」って誓わせるほどの威力を持つ男って……
でも辛い恋をしてきたら言える台詞で、そんな風に行き着くまで彼女はきっとその男のことを激しく愛していたに違いない。
愛して、愛しぬいて……………裏切られた―――?
柏木さんはどんな恋をしてきたんだろう……
何が彼女をこんな風にしてしまったのだろう…
きっと俺が想像するよりも柏木さんの傷は遥かに深く、ずっと癒えないんだろうな。
でも俺は柏木さんをそんな風にさせた男をこの目で見てみたい。
それは単なる興味なのか―――
それとも―――……
俺は心の中に芽生えた初めてのわけのわからない感情を振り払うかのように、頭を振った。
それは俺の中でドロドロと醜く、とりとめのない不快な感情だ。
俺は柏木さんの露になった耳の先にそっと口付けをした。
柏木さんがこちらを振り向く。
俺はちょっと微笑んだ。
彼女の傷が少しでも癒える様……