Fahrenheit -華氏-
「別に不倫関係とかじゃないから、知られてもいいんだけど。やっぱ周りの目が気になるって言うか……
好きだから、とか単純な理由では居られないのよね、あたしたち。
昔なら、若い頃ならそれだけで突っ走れたけど、立場だとか、責任だとかどうしても理性的な部分が先に働いちゃう。
大人になって働くってことは、色々枷があるわよね」
綾子が頬杖を付いて裕二から目を逸らすと、少し油で汚れた壁に視線を送った。
綾子が言う若い頃は、きっとこの店ができたばかりの真っ白だった壁のことを言うんだろう。
今は、それだけじゃ生きていけない。
歳を重ね、経験を積むと汚れた部分も認めなきゃいけなくなる。
―――そう言ってる気がした。
結局それから二時間ほどはいつもの同期らしく、俺たちは他愛のない話で大いに盛り上がり、止まっていた酒も進むようになった。
夜も23時を過ぎた頃、何となく解散する流れになり、会計を済ませ店に前で別れることに。
「啓人。俺たちのことはくれぐれも内密にな。ま、お前は口が軽いヤツじゃないからその辺信じてるけど」
「おうよ」
「じゃぁまた明日ね」
俺は駅の方に、裕二と綾子は揃ってタクシーをつかまえに、俺たちは別々の方向を選んだ。
眠らない街東京―――の、明るすぎる店のネオンや道路を横行するヘッドライトの光が溢れる中、
手を取り合って同じ道に、同じ歩調で歩く二人を
俺は羨ましく…それでもやっぱりどこか祝福するようなほがらかな気持ちで見送った。