Fahrenheit -華氏-
経理部長は大仰にため息を吐くと、
「大体、先方の勝手な都合でこちらが合わせるのは、どうかと思いますがね」
と顔をしかめた。
経理部長は……
20年以上ここの経理部で働いていて、経理のベテランだ。
ずっと内勤をしているから、現場の俺たちの苦労を知らない。
逆に言うと俺たちも経理のことを良く知らないが…
それでも、だからこそ、俺たちが得意先に振り回され、内部の人間にぐちぐち嫌味を言われながら板ばさみになっていることを
ほんの少しでいいから知ってほしい。
だけど俺のささいな願いは届かない。
「これだからジュニアは……」と経理部長が小さく漏らしたのだ。
本当に小さな声……聞こえるか、聞こえないかぐらいの声だった。
俺の一番……
触れられたくない部分を鋭利な刃物でグサリと刺された感じだ。
一人なら笑って返せる。
だけど俺の隣には柏木さんが居る。
俺にもそれなりのプライドというものがあるんだ。
言い訳をするわけじゃないが、別に……
好きで会長の息子に生まれたわけじゃない。
好んでこの仕事をしているわけじゃない。
用意されたレールの上を走る人生に意義を申し立てなかったことはない。
それでもこれが
現実。
俺は聞こえない振りをして、経理部長にもう一度頭を下げると、踵を返した。
柏木さんは俺の後ろをついてくると思ったけれど、
「あの!」
とまた、彼女独特の鋭い声がして俺は振り返った。
柏木さんが経理部長の言葉に腹を立ててくれたのは嬉しかった。
嬉しかったが、なんだか余計惨めだ。
柏木さんが何かを言い出そうと口を開きかける前に、
「柏木さん!」
と畳み掛けるように、俺がそれを強めに制した。
あまり大きな声を出したとは思わない。
だけど柏木さんは、彼女には珍しく驚いたように肩をびくりと震わせた。