Fahrenheit -華氏-
“閉”ボタンから手を退けると、待ってましたとばかりにエレベーターの扉がゆっくりと開いた。
エレベーターの前には物流管理の内藤チーフとそのアシスタントの女の子がそれぞれファイルを抱えて、立っていた。
「あ、神流部長。良かった、エレベーター故障しちゃったかと思いました」
内藤チーフが苦笑を浮かべている。
その脇を、柏木さんが無言で通り過ぎた。
しっかりした柏木さんは、いつも誰かしら社員とすれ違うときには必ず「お疲れさまです」と声を掛けていくのに、
それすらも返す余裕がないようだ。
只ならぬ雰囲気に内藤チーフとアシスタントの女の子が去っていった柏木さんと、俺とを見比べている。
「どうしたんですか?喧嘩?」
俺は思わず苦笑い。
「―――俺たち喧嘩するほど親しくないです」
それはずっと俺の前にあった事実だ。
そう、俺たちの間にあった距離が、今の一瞬で完全に遠のいて、おまけに二人を繋いでいた道も遮断されたってわけだ。
「…そう?」
内藤チーフは色々聞きたそうだったが、深くは突っ込んでこなかった。
「…ちょっと、仕事のことで言い合いになっちゃって……やり手の女の人って難しいですね」
スラスラと嘘が出てくることに俺自信もびっくりだ。
人間極地に立たされると、案外何でもできるもんだな。
「じゃ、私もこれで…」
“開”ボタンを内藤チーフにバトンタッチして、俺もエレベーターを降り立った。
二人が箱に乗り込む際、アシスタントの女の子が、
「ちょっと言い合いって顔じゃないですよ」
とそっと俺に囁いてきた。
俺はアシスタントの子を振り返った。
彼女はそ知らぬ顔をして内藤チーフと喋っている。
エレベーターが閉じて下降していく様を俺はいつまでも見送っていた。