Fahrenheit -華氏-
柏木さんは、付き合う前から変わらず俺を翻弄する。
まるで難解なパズルのように、俺を悩ます。
でもその振り回されてる感が心地いい。
エレベーターが閉じると、密室になった箱の中で俺は柏木さんの頭にチュッとキスを落とした。
「見られたらどうするんですか?」
ちょっと嗜めるように俺を睨んできたが、本気で嫌がってはなさそうだった。
あぁ…できることなら、このまま柏木さんをぎゅっと抱きしめて、もっと深いキスをして―――
押し倒したい…
そんな黒いことを考えていると、四階から人が乗り込んできた。
ちっ!邪魔しやがって!!
乗り込んできたのは、経理部の外資物流事業部担当の若い社員で、瀬川と言う男だ。
瀬川にはKTKテクニカル、ニューヨーク支社のことで随分世話になった。
緑川のミスのせいで、10日の伝票を11日にしてしまい、大幅な残高修正を経理部長に頼み込んだが、あっさり却下。
柏木さんが風邪で休んでいる日に、俺は瀬川に頼み倒して、何とか経理部長を説得してもらった。
もちろん柏木さんにも伝えてある事実だ。
「お疲れ様です」瀬川は俺たちを見てぺこりと一礼。
「お疲れさん」
「お疲れさまです」
俺たちはさっきの甘い雰囲気をしっかりしまいこみ、今はただの社員同士という顔を取り繕った。
「瀬川さん、この間のKTKテクニカルの件は、ありがとうございました」
「い、いえ!僕は何も…部長に頼んだだけですから」
瀬川が恐縮して慌てている。
無理もない。普段、柏木さんと話す機会なんて滅多にないから緊張してるのが、まざまざと分かった。
瀬川が探るようにちらりと柏木さんを見る。
瀬川が柏木さんを見る目は―――好意とは違った種類の……いっそ、敬意に近いものだ。
俺より歳が近いとは言え、相手は役付きの管理職。
バリバリのキャリアウーマンだ。
「柏木補佐も今度の懇親会参加されるんですか?」
ふいに瀬川が聞いた。