Fahrenheit -華氏-
少し表情を歪ませているが、特別に柏木さんは怒っていなさそうだった。
「あ…えと…」
それでも素直に答えることに戸惑い、俺は曖昧に言葉を濁した。
柏木さんはちょっと寂しそうに口元に笑みを浮かべている。
俺は白状した。
「………ごめん。俺が聞いてること気付いてたの?」
目だけを上げて柏木さんを見ると、彼女は顔からあの寂しそうな表情を拭い去っていた。残ったのは清々しい微笑みだけ。
「いえ。電話を終えて、喫煙ルームから出たときに気付きました。部長の残り香が……」
「残り香…」
ファーレンハイトか……
「ええ。華氏の香りが、かすかに残っていましたから」
そう言ってちょっと口元を綻ばせる。
まるでいたずらっ子を叱る母親のような笑みだ。
「ユーリ。Julyと書いてユーリと呼ぶんです。Jは無気音でユーリ」
柏木さんが顔にかかった横の髪を耳にかける。
露になった横顔は、穏やかでとても綺麗な微笑みを浮かべていた。
July……あれにはそう言う意味があったのか。
俺は柏木さんのくれた缶コーヒーのプルトップを開けた。俺がよく飲むメーカーのコーヒーで、“無糖 BLACK"と書かれている。
俺の好みを…さりげなく覚えててくれたんだ。
それに一口、口をつけると思った以上に喉が渇いていたことに気付いた。
半分ほど一気に飲むと、俺は缶を机の上に置いた。
「柏木さんのお誕生日は7月?」
「いいえ。1月です。1月18日」
1月18日。これでまた一つ柏木さんのことを知ることになった。
「7月は元夫の誕生月でした」