Fahrenheit -華氏-
緑川は柏木さんに頼まれていた書類を作成し終わったのか、束になったコピー用紙を彼女のデスクの上に置いた。
そのまま立ち去るかと思いきや…
「……何これ?」
と柏木さんのデスクトップの前に置いてある、ひよこの小さなぬいぐるみを手にとった。
本当に小さなもので、5cmも満たない。黄色いふわふわした丸い胴体に、黒い目と小さな黄色いくちばしがくっついている。
「柏木補佐って、顔に似合わず意外と乙女趣味ですよね」
緑川がひよこを戻して、ちょっと苦々しげに言う。
俺は気にせず、仕事に集中していた。
緑川が柏木さんが居ないところで憎まれ口を叩くのはよくあることだ。
前はよく咎めていたけれど、「部長は柏木補佐のことどうして庇うんですか?」と疑いの目で見られた。それでも気にせず注意していたものの、慎むことはない。
俺は諦めたってわけだ。
何で男どもはこんな女いいの?俺だったら絶対いや。
でも何でかな…緑川がこんなあけっぴろげに悪口を言うのは俺の前だけなんだ。
俺のこと好きって言っておいて、自分の立場を悪くしてるようにも思える。
それとも、他に何か理由があるのだろうか。
「前から思ってたけど、緑川さん何で柏木さんのこといつも悪く言うの?」
俺は書類から目を離さずに、何気なく聞いた。
振っておいてなんだが、俺も話半分だ。どうせ大した理由じゃないだろう。
緑川は自分のデスクに戻らず、足を止めると立ったまま俺を見下ろした。
「嫌いだからです」
冷たくて、射る様な口調。反論を許されない緊張感を帯びたその声は
柏木さんのそれとよく似ていた。