Fahrenheit -華氏-
しまった…やってしまった。
緑川はいつもの調子で泣き出すかと思った。
だけど、泣かなかった。
かわりにちょっと意外そうに目を開けると、俺の隣に歩み寄ってきた。
相変わらずきつい香水の匂いが俺の鼻をむずむずと刺激する。
「やっぱりそうだ…」
「何が?」
「部長はあたしが思った通りの人だったってこと。かっこよくて、頭も良くて、金持ちでおまけに優しい。なんてパーフェクトな人なんて居ないですもん」
まるで犬のような大きな目をくりくりさせながら緑川が聞いた。
悪かったな。パーフェクトじゃなくて!
「でもあたし、男の人はちょっと冷たいぐらいがいいです。顔が良ければ尚更♪」
「あっそ」
もう緑川の戯言に付き合ってる暇はない。俺は休めていた手を再び動かせた。
緑川は俺が急に興味をなくしたことを不満に思ったらしい。
屈みこむと、書類を俺のデスクに置くふりしてそっと顔を近づけてきた。
「部長は―――恵まれた家庭環境とルックスと、それなりの人望で周りから慕われる人。
だけど人なつっこい笑顔の下にはけだるさと、傲慢さを押し隠してる。頭が良い分、計算高くて、でもそれを実行するだけの行動力がある。
典型的な成功型の人間だけど、退屈で常に刺激を求めてる。
だから、ちょっと難しくて手に入れにくい柏木補佐のことが気になってる。
まるで難解なパズルを解くように、そのスリルと状況を楽しんでる。
部長の彼女は柏木補佐でしょ?
あなたは優しいけど―――怖い人。平気な顔してみんなを騙してる」
緑川の言葉に、俺は目を開いて顔を上げた。
「違います?」
緑川の目に、勝ち誇ったような光が宿っていた。