Fahrenheit -華氏-
結局緑川が泣き止んで落ち着いたところを見計らって、俺は帰ることにした。
緑川の掴んだワイシャツの襟元はよれよれ。ネクタイも捩れてるし、暴れたせいでしっかりセットした髪はぐしゃぐしゃ。
おまけにさっき洗面所で確認したところ、頬に一本引っかき傷もあった。
何があったの!?と問われてもおかしくない格好だ。
「それじゃ緑川さん。今日はゆっくり休んで。また月曜日にね」
「……はい。部長、今日はホントにすみませんでした」
緑川は丁寧に頭を下げた。
根は…いい奴なんだろうな、きっと。
「いいって。気にしないで」
よろよろになりながら、俺は何とか答えた。
そのまま玄関の扉を閉めると思いきや、20センチ程開いたドアの隙間から緑川のちょっと悲しそうな笑顔が覗いていた。
「部長…」
まだ何か…?俺は若干うんざりした顔で振り返った。
「優しい嘘をありがとう」
ほんの僅か目を伏せると、緑川は口元で小さく微笑み、扉が閉まる寸前まで俺は彼女の様子を窺っていた。
最後の言葉を聞いたとき
俺は始めて緑川の中に綺麗な何かを見つけたんだ。
大丈夫。
君ならきっと俺以上の男が君を幸せにする。
初めて心の底からそう思えた。