Fahrenheit -華氏-
佐々木さんは一瞬びくりと肩を震わせ、萎縮したように身を縮めた。
『Don't glare at me.(そんなに睨むなよ)The look in your eyes is scary.(目つきが怖い)』
マックスの言葉を思い出す。彼はそう言う度うんざりしたように額に手をやっていた。大仰にため息を吐きながら。
そんなつもりはない。ただ、笑わなくなっただけ。笑えなくなっただけ。
マックスはあたしの笑顔が好きだと言った。
いつまでも…あなたの好きだったあたしじゃない。あなたが変わったように、あたしも変わったの。
だけど今は…
『瑠華』
啓が嬉しそうにあたしをそう呼ぶ。くすぐったそうに笑って。まるで少年のように。
つられてあたしも笑う。彼の隣だと小さなことでも、笑えるようになった。
啓を思い出し、あたしの荒れ立っていた心の波が静かに漣を立て凪いでいった。
「…すみません。別に睨んでるつもりはないんです」
「え?…あぁ…はい」佐々木さんはびっくりしたようにきょとんと目を泳がせる。
「部長とは、人にあれこれ言われて後ろめたい関係じゃありません」
きっぱりと言った。
あたしの本心だった。知られると色々面倒だけど、それでもあたしは後ろ暗いことをしているとは思っていない。
堂々と、胸を張れる。
「それは…付き合ってないってことですか?」
佐々木さんの質問にあたしは口の端でほんのちょっと笑った。
そう言う取り方もできるわね。
佐々木さんは暗い車内の中でも分かるほど顔を真っ赤に染め上げていた。
「あ、あのっ!」
彼が何か言い出そうとするとき、
「着きましたよ~」と運転手さんののんびりした声がして、あたしの側の扉がゆっくりと開いた。
「佐々木さん、今日はありがとうございました。佐々木さんもお気をつけて」
あたしは佐々木さんにちょっと頭を下げると、それ以上何も言わずにタクシーを降り立った。
「あの!柏木さんっ!!」
佐々木さんの声があたしの背中を追いかけてくる。