Fahrenheit -華氏-
「何か?」
あたしは身を屈めると、中を覗きこんだ。
運転手さんがちょっと迷惑そうな顔をして、だけどすぐに何でもないように前を向いた。
そんな運転手さんの態度に気づいたのだろう。佐々木さんはちょっと彼を気にするように前を向き、やがて言葉を飲み込んだ。
「………いえ…何でもありません…おやすみなさい……」
「おやすみなさい。また月曜日」
その言葉を合図に扉がバタンと閉まった。
すぐにエンジン音を鳴らし、タクシーは走り去って行った。
佐々木さんはあたしの方を気にしながら、見えなくなるまでずっと後ろを振り返っていた。
いい人だと思う。
誠実だろうし、何より真面目。
だけど、それだけで決め手がない。
佐々木さんの気持ちには薄々気づいていた。だけど彼だって本気であたしを好きなわけじゃないだろう。
単に彼の周りに居ないタイプだから、物珍しいだけだ。
情熱的な男は嫌い。
いや…ホントは好き。だけどマックスで懲りた。
そう思っていたのに、あたしはひたむきに気持ちをぶつけてくる啓を―――
へこたれそうになっても何度も何度もぶつかってくる彼を
選んだ。
傷つきたくないと思っていても―――どうしてもあたしの女の部分が求めてしまう。
そう、あたしだって女なのだ。