狂犬病予防業務日誌
 鉄の塊の上部から海を見詰めた。

 真っ昼間だというのに海面は黒く、飛沫もなく、光の反射もない。

 巨大な黒い固形物が鉄の塊の動きを停めているように見えた。

 冬の海は静かで不気味だった。

 とある港に停泊してから無意義な時間が浪費されていく。

 ミンナ……死ぬ……。

 直感的な閃きが体を震わせた。

 巻き添えはごめんだった。

 動物的勘を信じてヒョイと鉄の塊から飛び降りた。

 呼び止める奴は誰もいない。

 未練はなかった。

 広い大地に立つと自由を手に入れた気がした。

 港は近代的で高い建物が目立ち、埠頭の道路も碁盤の目にきちんと整備されていた。

 海上を走る鉄の塊の中で争うことなくいままで縄張りを確保できたが、異国の地ではそうはいかなかった。

 よそ者を拒む同類同士の争いは牙を剥いて威嚇すると相手はキャンキャン鳴いて退散した。

 ニャーと声を出し、臀部を盛り上げて歯向かってきた族も敵じゃなかった。

 空から黒い鳥と白い鳥に隙をつかれ、魚の腸などを横取りされたのは不覚だったが、全体的にここには手ごたえのあるやつがいない。

 久し振りに人を咬みたいと思った。

 無邪気な発想からくる軽いものじゃなく尖った犬歯で深く食い込ませて血を流して致命傷を負わせたいという病的なものだ。

 いつものように港周辺を警備していると獲物が目に入った。

 襲うには造作もない年配の女性。

 隙だらけだが策略を思いつき、咬むという欲求をひとまず抑えることにした。

 この人に甘えたら食べ物を恵んでくれて暖かい寝床を提供してくれるかもしれないと思ったからだ。

 軽やかなステップで近寄り、女の人の脚に頭を密着させるとスッと細い手が伸びてきて頭を撫でられた。

 異国の人間とのファーストコンタクトは大成功に終った。

 
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