狂犬病予防業務日誌
第一章 よからぬ訪問者
 悲しみは汚れる。

 無意識に掘り起こされてくる記憶は悲しいものばかり。

 なぜなんだと考える暇なく頭に浮かびあがってくる映像は決まって後味が悪い。

 嫌なことは忘れてしまえばいい。

 頭を激しく振って効果を期待したが眩暈が襲ってくるだけ。

 嫌な思い出は工場から垂れ流され、川底に沈殿する不溶性物質のようになかなか浄化されない。

 今日もその映像を見る条件が揃ってしまった。

 蛍光灯が点けられているのは『生活衛生課』のプレートがぶら下がっているところだけで、他の課は明かりもパソコンの電源も落とされている。

 事務所内にいるのはおれだけだ。

 灰色の事務机の上にくっきり映っている頭の影が寂しさのあまり話しかけてきそうだった。

 窓の外を見ると重力を楽しんでゆらゆら舞い落ちてくる雪が情緒的な景色を演出している。

 寒い季節になるとどうしても忘れられない幼い頃の記憶が蘇る。

 本日の総仕上げとなる大事な仕事をしているのに椅子の背もたれに体重をあずけて体を反らせた。

 体を楽な姿勢にして記憶をさかのぼらせても愉快な思い出は消滅したらしく辛い過去を受け止めるしかない。

 とても幼い頃の記憶だ。

 お祭りの露店で買ったカブトムシが翌朝仰向けになって死んでいるのを発見したとき、心臓が押し潰されそうな衝撃を受けた。

 おれはカブトムシを生き返らせようと透明なビニール袋に入れて冷凍室の奥に隠した。

 自分が大人になる頃には冷温生理学が拡大に進歩しているだろうと思ったからだ。

 凍ったカブトムシが蘇生する……時が経てば叶うんだと、そのときは思った。

 7月のお祭りから5ヶ月経ったある日、我が家の夕食は鍋。

 外の寒さとは無縁の暖かい湯気が立ち込め、会話も弾んでいた。

 おれより2つ年上で運動神経がそれほどよくない兄貴が中学校野球部のレギュラーを奪取するぞと高らかに宣言し、家族の笑いを誘った。

「先週買った牛肉がまだ残っているはずなのよ」
 鍋の肉が乏しくなったのを見て母親が席を立つ。

 
 
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