狂犬病予防業務日誌
(知覚を疑え!)
 と、強く念じたが信じられない超常現象はまだまだ続いた。

 笑い声と比例して白い光が辺りを取り囲んだ。老人の影が白い光に引っ張られ流動線となり細長い渦巻き模様を形成した。

 気づけばトンネルのような空間におれがいる。トンネルの奥は段々と狭くなって出口がどうなっているのか不透明。目がチカチカする。上下左右の区別がつかなく平衡感覚が狂う。

 数秒で渦巻きの回転がおさまりトンネルから抜けられたが、おれの目に異変が起きた。周りが白黒に見える。色覚を見分けることができない。手で目を擦っても回復の兆しがない。

 呆然としていると……。

「ちょっとなにしてるの?早く座りなさい」
 聞き覚えのある声に急かされた。その声には幼い頃から当たり前のように注意され続けてきた。だから当たり前のように自然と椅子に座り、当たり前のように茶碗を持ち「お母さん」と言ってご飯をよそってもらう。

 テーブルにはグツグツ煮えたぎる土鍋がガスコンロの上で踊っていた。唾で喉をゴクンと鳴らす仮想の食事では我慢ならず、牛肉に狙いを定めて鍋に箸を突入させた。

「ずるいぞ、ヤス」
 兄貴はおれを非難したが口元は緩んでいたし、父親は微笑ましく2人のやりとりを見ていた。

 いただきますを言う前に兄貴が対抗心を燃やして牛肉を食べたら母親からきつい教育的指導がおれたち兄弟に実行されていただろう。しかし兄貴は絶対にそんな下品なことをしない性格なのをおれは見抜いていた。だからフライングして甘えた。
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