狂犬病予防業務日誌
「どうした?」
 椅子を倒して父親が立ち上がる。
「げ、カブトムシ」
 兄貴の声が告げ口に聞こえ、父親の顔が鬼の形相に見え、胃袋を突き破る勢いで鉄球が2個、3個、4個と立て続けに落ちてくる。

 体重は無限。足が床にめり込む。手を使ってもがいたが抵抗むなしく沈んでいく。遊泳禁止区域で誰にも気づかれず溺れていく愚か者の気持ちがよくわかった。

 必死さが伝わらないもどかしさに苛立ち、意味不明な奇声を発しても家族3人の態度は冷酷で落ちていくおれを黙視している。

 おれの目に涙がたまる。まるで抑留所で処分される寸前の犬や猫と同じだ。彼らは注射針を見て飼い主に見捨てられた事実を悟り涙目で訴える。

 殺さないで……と。

 その慈悲が救われることはない。

 真っ暗で無味無臭。浮遊感さえ味わえない空間におれは引きずり込まれた。黒い空間を鷲掴みするとツルンとした感触で指の間からすり抜ける。摩擦力がないのに体はゆっくり下降していく。安くて水っぽいコーヒーゼリーの中にいるみたいだ。

 この穴はどこへ通じているんだ?出口はあるのか?底はあるのか?おれは死ぬのか?それとももう死んでいるのか?ここは地獄へ通じる穴なのか?

 ひどい仕打ちだ……カブトムシを冷蔵庫に入れただけなのに……石を投げれば当たりそうなごく有り触れたただのうっかりミスなのに神様は惨いことをする。カブトムシを生き返らせたい!ただその一心でしたことが人生の障害となって結局はこの有様だ。

 諦めが死に直結することは感じていたが、おれは力を抜いた。悪い癖が出た。生きることを諦めてしまった。

 
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