狂犬病予防業務日誌
「来ていませんよ」
 白々と嘘をつく。

「そうですか……」
 受話器から落胆する声がこぼれてくる。

「どうかされました?」
「主人が保健所に犬を連れていくと出ていったきり帰ってこないんです」

「それは心配ですね」
 と、おれが言ったあと、しばしの沈黙。抑揚をつけずに喋ったので言葉とは逆の意味に、つまり本心では心配なんかしていないことが見破られたかもしれない。

「あのうー、もし主人が保健所に来ましたら、犬の処分を思いとどまるように説得してもらえませんでしょうか?」
 心配していたのは旦那より犬の方らしく、馬鹿らしくなったおれは「ええ」と生返事をして電話を切った。

 名前と住所を聞くのを忘れた。メモすべきだったろうか。でも、あの老人の奥さんであることに間違いないのだから申請書を見れば済む話だ。

(なにするんだっけ?)
 次にすべき行動が頭の中で行方不明。

(掃除するんだったかな?……どこを?……わからない)
 腕を組んで頭を揺らしてもなにも浮かんでこない。

(帰るとするか……)

 事務所を横切り、ドア脇にあるスイッチが目に入ったが、電気を点けたまま帰ることにした。

『経費削減のご協力』の実施要領で昼休み時間の消灯などを呼びかける偽善的な文書を挟んだクリップボードが回ってくるが、公務員じゃないおれには無関係だ。

 
 
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