狂犬病予防業務日誌
「なにしてるの?」
 妻が寝間着姿のまま家から出てくる。

「おれは出稼ぎでいなくなるし、おまえは来週入院するんだからしかたないだろ。面倒を見てくれる親戚もいないんだぞ!」
 そう言うと妻は涙ぐみ、歯を食いしばって悲しみをこらえる。

 前日から何度も繰り返されてきた議論に終止符を打つため、おれは妻に厳しい視線をぶつけた。

 同情の余地はない。妻が港で拾ってきた犬は豚のような面構えで大きな声で吠えて隣近所に迷惑をかける。おれも妻も咬まれた。

 なんでそんな犬を拾ってきたんだ?と訊くと妻は“あなたに似てるから”とケラケラ笑った。

 家に犬がきてからあまり良い事がない。おれが勤めていた会社が多額の負債を抱えて倒産した。妻はこっちが聞いているだけで不快な気持ちにさせられる嫌な咳をして病院に通い、ついには入院するはめになった。

「かわいそうよ。やめてよ!」
 妻はとめようとするが、おれが威厳たっぷりに首を振って黙らせた。妻が追いかけてこないことを祈りながら雪道を歩く。

 風が吹いていなかったのでそれほど寒さを感じなかった。荷物を持って歩く運動量で上昇した体温が冬の冷たい空気によって首筋から流れ落ちる汗を気化して白い湯気で調整してくれた。帽子を脱ぐとまるで蒸気機関車だ。

 保健所までは6キロの道のり。通りによって除雪をしていない歩道があるので長靴が雪で埋まり歩行が困難になる。

 道路に出ても車のスタッドレス・タイヤで磨耗した路面はツルツルで転んで体が宙に浮かないようにすり足で進むしかなく、雪のないときの倍の時間がかかった。
 
 
 
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