狂犬病予防業務日誌
第四章 明るい病室
 目覚めて真っ先に飛び込んできたのはまたしても白い天井だった。

 見た目はそれほどかわらないのに保健所の天井より清潔さを感じるのは消毒液のニオイがするからだろうか?腐るほど時間はあるから穴が開くくらい見ていられるが、天井を眺めているとまだ夢の中にいるんじゃないかと不安になる自分がいる。

 体の軸を動かさずに右側に顔だけを向けた。

 手を伸ばせば届きそうな距離に窓ガラスがある。びっしりと雪がこびりつき、白い幕で外の景色を遮って嫌がらせをしている。

(まぁ、どうせ外は雪景色だろうけど)

 ボケッーとしているだけでなにもすることがない。腕と足が10センチくらいしか動かせない。生活圏内はベッドの上だけと制限されてしまった。

 床はチェス盤のような白と黒が互い違いに並べられた市松模様。起き上がって両足をつけ、組んだ両手を天井に向かって突き上げ、背骨が軋むまで伸びがしたい。そんなささやかな願いも叶わず、ベッドから一歩踏み出た空間が別世界に感じる。

 たまらず看護師さんに訊いたことがあった。
「いつ退院できますか?」
「安静にしていれば治りますよ」
 笑顔で答えてくれる看護師さんの言葉が子供だましのまじないにしか聞こえなかった。

(どうしてこんなことになったんだ!)

 寝たきりだとまともに脳が働かない。

 毎日平板化された生活による倦怠感と虚脱感、空虚な時間が流れるだけで脳が衰え、いままでの記憶が失われていく喪失感に怯え、世間から取り残されていく疎外感となにもできない無力感に襲われる。

 おれの人形化が加速していく。

 せめて焦燥感くらいあれば生きていけるのだが……。

 早く治そうという焦りでもなければ生きていく意欲があるとはいえない。看護師さんに訊くまで心の中にあった僅かな焦りがいまでは完全に失っている。


 
 
< 44 / 49 >

この作品をシェア

pagetop