君を忘れない
ここに来て1時間は経っただろうか。



最初の場面からいくつも場面を変えて、話すらも変えてどのくらいの場面を演じてきただろう。



どのくらいでもいい。



やはり私は演じることが好きだ。

そのことだけは、こうしている今はもちろん、いつだって自分でも分かっている。

それだけに、いつも一歩踏み出せない自分がたまらなく惨めに思えてくる。

私はどうして・・・


「すげえな」


声のした方向を見ると、そこにはトラさんが立っていた。

以前に家の近くで話して以来だから会うのは一ヶ月振りなのだが、競艇学校の試験が近づいているせいか以前よりも痩せているようにようだ。


「トラさん、いつの間にそこにいたんですか」


そう言うと、トラさんは恥ずかしそうにベンチに座った。


「うーん、『空を翔る一筋の流れ星』の最後の場面のちょっと前くらいかな」


恥ずかしそうな笑顔で頭の後ろに手を組んだ。

その仕草は癖なのだろうか、今まで何度もその仕草を見てきたし、トラさんを思い浮かべると真っ先に頭の後ろに手を組んだ姿が出てくる。


「じゃあ、5分くらい前ですね。

というか、『そらかけ』知っているんですね」


この小説はあまり有名ではない作家が書いていて、やはりその小説自体も有名ではなく、文学部の友人でさえ知っているという人は誰もいなかった。
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