約束を破れない男(仮)
 子供は、放心状態の父親をその細い腕に込められる最大限の力で持って突き飛ばした。父親はされるがままに、その場に尻餅をつくと両手で顔を覆うようにして嗚咽を漏らす。子供はそんな父親を横目で見ながら、母親の体に縋りついた。

「お母さん! お母さん!!」

 その細い体のどこにそんな力が余っていたのか、あばら家を揺るがすほどの必死の声が鳴り響く。その声が届いたのか、母親の指がピクリと動いた。

「お母さん!」

 母親の瞼がうっすらと開くが、それ以上開ける力がないのか微かに震えたまま止っている。そして、その口が瞼同様、戦慄くように開いた。

「あな、た、は、生き、なさい。お、父さん、を、怨んじゃ、ダ、メ」

「そうだ、俺を怨むのはお門違いってもんだ」

 必死に何か言おうとする母親の言葉を遮るように、背後から低い声が響いた。思わず振り返った子供の目に映ったのは、今まで見たことないような父親の歪んだ笑みだった。

「そうだ、俺を怨むんじゃない。怨むなら――」

「――?」

「そう、――だ。お前は、復讐しなくてはいけない。わかるな。お前は、父さんのそして、母さんがこうなってしまった復讐を。フ、フフ、フ、ハハハハハハ!」

 狂ったように笑い出した父親から逃げるように、母親に縋りつく子供だったが、すぐにその異変に気づいたのか、表情が凍りついた。微かに上げられていた母親の腕は力なく垂れ落ち、半分だけ開けられていた瞼と口はそのままに、固まってしまったかのように動かなくなっていた。

「……お母さん。……お母さん! お母さん!!」

 母親に縋りつくように泣きじゃくる子供の横で、父親は狂気を孕んだ笑みを未だ顔に貼り付けたまま、子供の首根っこを掴むとそのまま力任せに放り投げた。

「お前は、復讐するんだ。忘れるな。必ず復讐するんだ! さあ、すぐに出て行け!」

 子供は、ただただ恐怖に身が震え動けなかった。そして、子供は見た。父親がその虚ろな瞳に暗い炎を灯しながら、何もないようなこの家の中で最後に残ったマッチを一本擦ったのを――。
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