約束を破れない男(仮)
 男は、野口と名乗った。それが本名だろうがそうでなかろうが、今は関係ない。野口が死のうと思ったのは、実はこれが初めてではなかった。二十年ほど前に一度死のうとしてやめたのだと言う。そのやめた理由というのが、今回電話して聞いてもらいたかった最大の事柄だと野口は笑いながら話した。

『実はですね、ある踏み切りで私が走ってくる電車の前に飛び出そうとしていたところを急に後ろから引っ張られたんです。それで、私は『あぁ、とめられてしまったか』と残念に思いながら振り返ったら、そこにいたのはずいぶんと強面の私よりは年上に見える身なりの良い男性でした』

 野口は、その強面の男性に自分が死のうとしたのをとめられたと、理不尽だとは思ったが憤慨しながら食って掛かったと言う。しかし、その男性は表情一つ変えることなく懐から何かを取り出してポンと野口の前に投げてよこした。訝しく思いながらもその投げられたものに視線を落とした。それは、多少のふくらみを持つ何の変哲もない茶封筒だった。男性が、何を思ってこんなものを投げてよこしたのか理解できないまま、ただボーっとその茶封筒を眺めていると、感情の窺えない声が降ってきた。

「こんなところで死なれたら迷惑だ。本当に死ぬ気があるんなら、それを百倍にしたらすればいい」

 そんなセリフと茶封筒を残して、男性は何処へと去っていってしまった。結局、その茶封筒の中に入っていたというものが、まだ帯のついた現金百万円だったという。
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