六天楼の宝珠〜亘娥編〜
二 怒りの理由
 どうしてこんな状況になってしまったのだろう。

 耳元をくすぐる柔らかい唇の感触に、鋭敏になった膚(はだ)はおののき既に思考回路は言う事を聞かない。

「……誤、解……ですっ」

 必死に自分を保とうと後じさっても、長椅子の肘掛という障害に阻まれ呆気なく限界を悟る。

 薄紅色に上気した頬に瑞々しい果実の様な紅い唇。伏せられた黒く長い睫毛を震わせ、嫌悪と羞恥がない交ざった姿が、一層見る者に愛らしいと思わせるなど本人は知る由もない。

「誤解? 何の話ですか」

 碩有は顎の稜線を舌で辿り、自らの身体全てで彼女を強く抱きしめた。あたかも、僅かな隙間さえも間に残すのを許さないとでも言っているかの様に。

 彼女は顔を背けた。初めて身体を重ねて以来、実はどんな時でも夫を拒んだ事など一度もない。けれど今ばかりは、とてもそんな気にはなれなかったのだ。

 外出から帰るなりの突発事、自室に入る前から侍女に人払いをした時点で何かおかしいとは思っていたのだが。まさかこんな風に迫られるとは──予想外もいい所だった。

「碩有様っ……! お願いですから、聞いて下さい」

 抗いながらも何とか記憶を手繰り止せて、此処に至る経緯を思い出そうとした。だが夫が器用に片手で帯紐を解きつつも、別の手で着物の裾を探るのが気になってとにかく考えがまとまらない。

 碩有にしても、いつもならこんな昼日中から無茶な迫り方をしてくる事はなかった。荒々しい愛撫からも怒りだけはひしひしと伝わってくる。何故かはわからないけれど。

 自分が何か怒らせる様な事をしたのだろうか。でも行きはともかく、帰りの車内は全く会話をしなかったのだから、心当たりはあるはずもない。

「何をお怒りになっているのか、せめて仰っていただけません、か……んんっ!」

 口を開けば、執拗な接吻に息を奪われる。

 入り込んだ舌に蹂躙(じゅうりん)され、中から甘い痺れが身体に広がって行くのを何とか理性で踏み留まった。
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