六天楼の宝珠〜亘娥編〜
季鴬はそれでも答えなかった。知っていたからだ。槐苑にも侍女にも言われたが、いつもの香りがしない室内はひどく気に障った。ただでさえ調子が悪くてふさぎ込んでいるのに、あれも駄目これも駄目と禁じられ、懐妊がわかって数日にして我慢は限界を超えていたのだった。
「楼にいる者で、過去に同じ様な真似をして子を流した者さえいるんだ。貴方も気をつけないと──」
季鴬はそれまで背けていた顔を上げ、慎文を睨み付けた。
「出て行って」
「季鴬」
夫の表情は初めて見るものだった。張り付いていた笑みは消え、戸惑いさえ浮かんでいる。
「私を気遣うと言うのなら、しばらく私を放っておいて。静かに過ごしたいの」
優しさから出た言葉と頭ではわかっているのに。季鴬は顔を背けて庭から視線を動かす事なく、遠ざかってゆく足音を聞いた。
──懐妊したのは私が最初じゃない。詳しくて当たり前だ。
慎文には既に側室に女児が二人いる。それぞれ別の腹から生まれた子供だ。詳しく知ろうとしないだけで、側室の数を考えればもっといたのかもしれない。流産死産も珍しくはない世の中だ。
何故これほどまでに、自分は彼を疎むのだろう。相手を思いやる余裕もない。一体いつまで礼儀をわきまえない子供なのか。子供が子供を生むなんて、お笑い種もいいところだった。
──出来るわけがない。この子の母親になるなんて。
いずれにしても、慎文はもうこちらには訪れないだろう。
自嘲気味に笑って、彼女は生まれてくるわが子を初めて不憫に思った。
※※※※
だが予想に反して、次の日も慎文は季鴬の元にやってきた。手には盆、上には皿と鮮やかな黄色の果実が載っている。
「枦橘(ろきつ)を持ってきたよ。食欲がないそうだが、これなら食べやすいと思うんだ」
「……もう来ないでと、言わなかったかしら」
相変わらず寝台から離れられない季鴬はすっかり憔悴していて、昨日の様な強い口調さえも出なかった。対して慎文はいつもの口調で、
「言われなかったと思うけど。何を怒っているのか知らないが、貴方に今大事なのは丈夫な跡取りを生む事だろう? 失敗したら苦痛が長引くだけだと思うよ」
「楼にいる者で、過去に同じ様な真似をして子を流した者さえいるんだ。貴方も気をつけないと──」
季鴬はそれまで背けていた顔を上げ、慎文を睨み付けた。
「出て行って」
「季鴬」
夫の表情は初めて見るものだった。張り付いていた笑みは消え、戸惑いさえ浮かんでいる。
「私を気遣うと言うのなら、しばらく私を放っておいて。静かに過ごしたいの」
優しさから出た言葉と頭ではわかっているのに。季鴬は顔を背けて庭から視線を動かす事なく、遠ざかってゆく足音を聞いた。
──懐妊したのは私が最初じゃない。詳しくて当たり前だ。
慎文には既に側室に女児が二人いる。それぞれ別の腹から生まれた子供だ。詳しく知ろうとしないだけで、側室の数を考えればもっといたのかもしれない。流産死産も珍しくはない世の中だ。
何故これほどまでに、自分は彼を疎むのだろう。相手を思いやる余裕もない。一体いつまで礼儀をわきまえない子供なのか。子供が子供を生むなんて、お笑い種もいいところだった。
──出来るわけがない。この子の母親になるなんて。
いずれにしても、慎文はもうこちらには訪れないだろう。
自嘲気味に笑って、彼女は生まれてくるわが子を初めて不憫に思った。
※※※※
だが予想に反して、次の日も慎文は季鴬の元にやってきた。手には盆、上には皿と鮮やかな黄色の果実が載っている。
「枦橘(ろきつ)を持ってきたよ。食欲がないそうだが、これなら食べやすいと思うんだ」
「……もう来ないでと、言わなかったかしら」
相変わらず寝台から離れられない季鴬はすっかり憔悴していて、昨日の様な強い口調さえも出なかった。対して慎文はいつもの口調で、
「言われなかったと思うけど。何を怒っているのか知らないが、貴方に今大事なのは丈夫な跡取りを生む事だろう? 失敗したら苦痛が長引くだけだと思うよ」