六天楼の宝珠〜亘娥編〜
「い……いいえ。何でもないの」

 心の奥で囁く声がする。この人がこうして私の元へ来るのは今だけだ。跡継ぎが出来たのが嬉しいのであって、いずれまた来なくなるに違いないと。

 以前ならそうあって欲しいと願っていたはずだ。なのに。

 脇に眠る、産着にくるまれた小さなわが子を見下ろす。夫の言葉は誇張ではなかった。慎文は髪の色がやや明るく、肌は浅黒い。女子かと思えるほどに、赤子は自分に似ていた。

「大事を成し遂げてくれたはいいが、産後の肥立ちが悪くてはいけないからね。槐苑、侍女達も一層気を配ってやって欲しい」

 それからも何かに付けて訪れては子供の──父親によって『碩有』と名づけられた──顔を見ては帰っていく。だが予想通り、しばらくするとやはり以前の様に定期的な訪れとなった。息子の顔を見ても、泊まらず帰るというのもしばしばあった。

──ああ、やはりそうなのだ。

 かねがね「子を産むのが役目だ」と公言していたにも関わらず、開きかけていた季鴬の扉からは隙間風が入って来る様になった。風はひどく身に沁みて、どういうわけか悔しかった。

「お一人ばかりを寵愛なさっていては、楼内に諍いを生みますからのう」

 槐苑などは当然だという顔をしていたが、季鴬はどうにも納得出来ずに扉を閉める事にした。碩有が生まれる以前に戻ればいい。難しくはないはずだと。

 慎文は妻の態度の変化に気づいていたらしいが、口に出しては特に何も言わなかった。彼自身はずっと変わらないのだ。ただ訪れる頻度が変わっただけ。泊まる時には妻に手を伸ばすというのも変わらない。

 変わったのはむしろ季鴬の方だった。

< 46 / 77 >

この作品をシェア

pagetop