六天楼の宝珠〜亘娥編〜
「先代の──私の祖母に当たる人ですが──正室が父の数年後に亡くなってから、祖父は側室を数多く迎えはしましたが、晩年には全て邸から出してしまいました。その辺りから、掟はあまり意味をなさなくなっていたのは事実です。適用される相手がいないのですから」

「じゃあ、私が入って来たから、復活したようなものだったのかしら……」

「そんなところですね。でも、他に側室はいませんから外出禁止の形骸だけが残った。本当に厳しく取り締まっていたら、私と貴方を会話させようとは思わなかったでしょう」

 会話、の辺りで翠玉は不思議そうな顔をした。碩有は一気に肩を落とす。

「覚えていないのならいいんです……」

「えっ? いえ、覚えていますよ! 庭で迷った時の事でしょう? 初めてお会いした時の」

 でもあれは確か戴剋とは関係のない場所での話だ──首を傾げているうちに、見る見る夫の機嫌が悪くなっていっているのを感じて翠玉は慌てた。懸命に記憶を辿る。

──他に会話した事なんて、あったかしら? 戴剋様が傍にいて?

「あっ、思い出しました! 戴剋様が遺言をされた時ですね。枕元で」

「……もういいです。窓の外でも見ていてください」

 どうやらこれも違ったらしい。

 ふいと顔を逆側に背けてしまった碩有の端整な横顔を、彼女はややしばらく呆気に取られて見つめていたが、思い出せないのは仕方がないと再び車窓の風景を眺める事にした。

 けれどやはり、背後の存在が気になって今度はあまり集中出来ない。

──怒ってしまわれたのかしら。でもどうして、思い出せないのだろう。

 六天楼に入ってから若い男性と会う機会なんて全くと言っていいほどなかったし、ましてや話したとなれば覚えていないわけがないのに。

 考え込む翠玉の目に、郊外の丘陵地帯の風景が飛び込んできた。どうやら街をすでに抜けていたらしい。木々の合間に石造りの墓影もちらほらと見える。

 その途端、今までの経緯を脇に追いやってつい話し掛けながら背後を振り返った。

「碩有様、見えて来ましたよ。あれが私の──」

「ご生家の墓がある場所ですね」

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