六天楼の宝珠〜亘娥編〜
 季鴬は確かに怒っていた。だから怒りのあまり答えられなかった。

 自分で自分がわからない。表情一つ、仕草一つで身体が引き寄せられてしまいそうになるなんて。

「……明日、呉に行くそうね」

 必死に話を逸らすと、彼は「槐苑だな。余計な事を」と顔をしかめた。

「危険過ぎるわ。罠でも張られていたらどうするの?」

「聞き間違いだろうか。貴方が私を心配してくれるなんて」

 今までならこんな台詞と共に手が伸びて来たのだと、季鴬は内心身構えた。だが彼はそのまま動こうとしない。

「大丈夫だよ。腕の立つ部下達も護衛に充分連れて行くし。それに万一の事があっても、父上はまだ達者でいらっしゃる。もう碩有もいるしね」

「何を馬鹿な事を。冗談ではないわ!」

 槙文は苦笑して一歩、妻の元へ歩み寄った。唇が触れんばかりに顔を近づけて囁く。

「……賭けをしないか。私がもし、無事に戻れたら。その時貴方は私が贈った瓊瑶で身を飾るという」

 意味がわからず、季鴬は目を見開いて静止していた。

 確かに彼女は着物以外に装飾品を全く身に付けていなかった。夫からの贈り物の髪飾りでさえも、戸棚の奥にしまいこまれて日の目を見ずにいる。

「貴方には身を飾るものは必要ない。貴方自身の輝きは自然と同じ、脆く儚いものではないからだ──いや『なかったから』というべきか」

「い、一体それはどういう意味──」

 答える声にはかつての様に力が入らなかった。与えられなくなり、再び手の届く場所にある槙文の存在が心をかき乱す。

 彼はほんの少し、哀しそうな表情をした。

「単なる私の我儘だよ。少しだけ、貴方が私を思い出せる様にしたいんだ」

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