六天楼の宝珠〜亘娥編〜
 掠れた声で搾り出す様に、季鴬はようやくそれだけを呟いた。

 染みは拭い取れなかった残りに見えた。布地で出来た匣に付いた、黒く変色した──それはまるで血に見える。

「いえ、これは泥でございます。拭き取りきれませんでした」

 申し訳ございません、と侍女が頭を下げる。

「他の匣に移そうとしたのですが、戴剋様がこのままで良いと仰せになりまして」

 季鴬はその時、全てを悟った。

「奥方様……」

「……しばらく、一人にして」

 気遣う侍女や槐苑を人払いして、碩有でさえも預けると季鴬は寝台に顔を埋めて泣いた。

 嗚咽を聞かれるのをはばかっても、悲鳴に近い声が口から漏れるのを止められない。

 鄭を離れる時ですら、こんなに涙を零す事なんてなかった。

 あの時、せめてもっと優しい言葉を掛けてあげられたら良かったのに──後悔ばかりが彼女を苛む。

 槙文はもう戻っては来ないのだ。自分の憎まれ口に呆れたり、笑っていた顔を思い浮かべる。甘やかな声で髪を撫で、抱きしめられる腕も、共に碩有の成長を見届ける未来も失われてしまった。永遠に。

──戴剋様は、わかっておいでだ。でなければ、この様な生々しい状態で渡そうと思うはずがない。

 耳飾の入ったままの匣を握り締めて、彼女はとめどもなく泣き続けた。

 消えない染みは、恐らく泥などではないのだろう。そして義父は自分を責めている。そんな気がした。
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