唇に愛
「今日からこの店舗で勤務する事になった大谷美里さんだ、お前より長く勤めているから教える事はないが、売り場案内とレジ周りと清掃を教えてくれ。」
タバコ臭い事務所の中で、店長はいつもきっちり分けられている七三を撫でながら、君を紹介した。
君は軽く頭を下げて、また僕を捉える。
暑さと緊張から手の平がじんわりと汗ばむ。
気づかれないようにズボンでさりげなく拭きながら、何て挨拶すればいいかと考えた。
人見知りが激しい自分が嫌でバイトをコンビニに選んでから五ヶ月。
人見知りはまだ直っていなかった。
初対面でこの様、女性経験が多いわけではないから余計に。
「名前は?」
高いのか低いのかよくわからない声に気づいて、視線を君に戻した。
君は冷たく鋭い視線で僕を射抜く。
ただ者ではない、と思わせる威圧感で僕の緊張はピークに達した。
「はい?」
少し上擦った声でやっと言えたのがその一言。
僕は自分のミスにすぐ気づいて、冷や汗が額に吹き出す。
君は顎を突き出し、偉そうな顔で僕にこう言い放った。
「はい?じゃないわよ、これから一緒に働く相手に自己紹介も出来ないわけ?」
僕の頭一個分下に居る君は、小柄な体格には合わないほどの態度だった。
僕は頭の中で何かが切れそうな音が聞こえたが、なんとか押さえて口をゆっくり開いた。
「藤木隼人です。よろしくお願いします…。」
「よろしく藤木くん、その口は飾りなのかと思ったわ。」
君は口だけで微笑んで、「仕事に入らせていただきます。」と一言残して事務所から出て行った。
僕は口を半開きにして、ただ呆然と事務所のドアを見つめる。
「彼女は以前もここで働いたのだが、気が強いことで有名でな…。仕事は完璧なんで、一目置かれてるんだ。お前にはキツいタイプだろうが、慣れろよ。」
店長がカタカタとキーボードをいじる音を聞きながら、僕はいつバイトを辞めようかと考えていた。