唇に愛
それからは心臓を鷲掴みにされたような恐怖の中、僕は働いた。
美里は変わった人というか、毒である。
少しミスをすると口だけ微笑んで、心が折れてしまいそうな嫌味を静かに言う。
今まで知り合った人は怒りを露わにするのに、美里は怒っているかもわからない。
そんなタイプは初めてで、僕はとにかく関わらない様にしようと何度も言い聞かせた。
美里は図々しい事を言うだけあって、仕事はほぼ完璧にこなす。
接客態度も申し分無し、レジ打ちも品出しも手際よくこなした。
お客さんに向ける笑顔に見とれていたのは今だから言えること。
「藤木くん、もう22時だからその箱終わったら上がっていいわよ。」
上から聞こえてきた声に僕は勢いよく顔を上げた。
そこには僕を見下ろす美里が居て、僕は思わず目をそらす。
「…わ、わかりました。」
僕がそう言うと、美里は早足でレジに戻っていった。
微かに震える手を見て、深呼吸する。
声をかけられただけなのに、なんて臆病者なんだろうと自己嫌悪になりながら、僕は残りの商品をゆっくりと棚に陳列していった。