ありのまま、愛すること。
母が亡くなったのは、1969年5月16日19時56分。
一旦、病院の霊安室に安置され、弔問者が多く訪れることが予測できたため、母の体は自宅に帰ることなく、石川町の蓮光寺へと運ばれました。
私は母の傍を片時も離れなかった。
畳の上に敷かれた布団に横たわる母は、まだ眠っているようにしか見えません。
おだやかなその表情に包まれるかのように、亡くなった当夜、私は寄り添うように横にいたのです。
でも一睡もせずに、しくしくと泣いていました。
亡くなった2日後の5月18日、寺で行われた葬儀、告別式でも、私は泣きとおしました。
もう声は出ませんでした。でも、涙が枯れることはなかった。
ご住職が、「こんなに泣く子は見たことがない」と言っていたくらいです。
挙句の果てに私は、母の遺骨を持って逃げようとした。
骨といっしょに、一生暮らしたかったのです。
でも、ご住職がこう諭してくれました。
「お母さんがいつまで経っても天国に行けなくなるから、それはいけません」
それで懸命に涙をこらえようとしましたが、それでも止まりませんでした。
あんなに優しい母の命を奪うなんて、神様は無慈悲でありすぎる。
私は神を呪いました。
じつはそのとき、私は死のうとさえ思っていたのです。
死んだら、天国で母に会えるからと─。
一旦、病院の霊安室に安置され、弔問者が多く訪れることが予測できたため、母の体は自宅に帰ることなく、石川町の蓮光寺へと運ばれました。
私は母の傍を片時も離れなかった。
畳の上に敷かれた布団に横たわる母は、まだ眠っているようにしか見えません。
おだやかなその表情に包まれるかのように、亡くなった当夜、私は寄り添うように横にいたのです。
でも一睡もせずに、しくしくと泣いていました。
亡くなった2日後の5月18日、寺で行われた葬儀、告別式でも、私は泣きとおしました。
もう声は出ませんでした。でも、涙が枯れることはなかった。
ご住職が、「こんなに泣く子は見たことがない」と言っていたくらいです。
挙句の果てに私は、母の遺骨を持って逃げようとした。
骨といっしょに、一生暮らしたかったのです。
でも、ご住職がこう諭してくれました。
「お母さんがいつまで経っても天国に行けなくなるから、それはいけません」
それで懸命に涙をこらえようとしましたが、それでも止まりませんでした。
あんなに優しい母の命を奪うなんて、神様は無慈悲でありすぎる。
私は神を呪いました。
じつはそのとき、私は死のうとさえ思っていたのです。
死んだら、天国で母に会えるからと─。