午睡は香を纏いて
だけどその言葉は本当のことだった。
母は彼氏が変わると、あたしを置いていなくなってしまう。
その期間はまちまちで、数日だったり、数週間だったりした。
一番長い時で、二ヶ月だった。

男に飽きたり、或いは捨てられたりすれば、ひょこりと帰ってくる。
『あんたさえいなかったら、こんなことにはならなかったのに』なんて不平を零しながら。
そう言ったあとに、疎ましそうな視線をお決まりに寄越すのだけれど、それでもあたしは嬉しかった。

捨てられなかった、と胸を撫で下ろすのだ。

中学二年に進級してまだ日を置かなかったころ、
父はあたしと母を捨てて出て行った。
ぽつぽつと起こっていた夫婦喧嘩は次第に頻度を増し、
耳を塞ぎたくなるような口汚い口論が毎日のように続いた。
出て行く数日前からは、父は暴力に訴えるようにもなってきていた。
母の顔は腫れ、家族団らんの場はぐしゃぐしゃに荒れていた。


もし、父が出て行かなければ、母の方が逃げ出していたのではないかと思う。
とにかく、父は家庭に嫌気が差したのか、何も言わずに出て行って。
その代わりに数日後、判をついた離婚届を持った弁護士がやってきた。

二人の間にどんなやりとりがあったのかは、知らない。
ただ、あたしは母と共に、母の旧姓へと苗字を変えた。

それから程なくして、母は『母』を辞め、『女』へと姿を変えた。
親を望む子供を、顧みることもなく。

もし父が出て行かず、母が逃げ出すことになっていたら、母はあたしを連れて行っただろうか。
父は母と共にあたしを捨てた。母は……?



「あ。冷た……」

ローファーのつま先部分にまで、コーヒー牛乳は染み渡っていたらしい。
靴下の先端がじんわりと肌に張り付く感覚があった。

ティッシュで丁寧に拭いたつもりだったのに。

握ったままだった携帯をバッグに押し込んで、何回目ともしれないため息をついた。

ため息ばかり。

ため息一つ吐くごとに幸せが逃げていくというけど、それならあたしの幸せはとうに尽きているかもしれない。

あたしの幸せは一体いつ、終わってしまったのだろう。
いつまでが、幸せだったんだろう。


なんて、馬鹿らしい考え、か。
暗くなったって、悩んだって、状況はなにも変わってくれない。

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