ホワイト・メモリー
彼はこれから数分かけて新宿駅まで歩き、改札を通り、人込みを縫って中央線のホームにたどり着く。ホームは規律を乱した大勢の人間でうようよしているに違いない。吐物もあるだろう。そんな場所から早く逃れたいと思っても、すぐに電車に乗られるとは限らない。このシーズン、この時間帯の電車であれば、我先にと割り込む度胸がなければ次の電車を待つことになる。あの喋り方だと、おそらくそうなる可能性は高い。
何を言わんとしているかというと、中野はすぐそこなのである。なにもわざわざ逆の方向に歩いて、窮屈な思いをしてまで電車に乗らなくても、タクシーで帰れば良いではないか。なんなら酔い覚ましに歩いて帰ったって良いくらいの距離だ。
「馬鹿馬鹿しい」
功は心の中でそう呟いて、信号が青になるなり酔っ払いとの差を広げて走り去った。
東京に住んでいる人間は驚くほど土地勘がない。電車やバスに乗れば、勝手に目的地に着いてしまうから、目的地までの距離や方向などに興味がないのだろう。都庁は新宿駅の西側に位置しており、中野はさらに都庁の西側に位置している。それなのに彼はなんのためらいもなく東に向かって歩いている。確かに中野はちょっと遠いかも知れない。しかし、彼の判断はそういうものではない。東に向かって歩いて電車に乗れば中野に着く、という安い判断に過ぎないのだ。まず全体を概観し自分の位置を確認する。それから目的地までの距離と方向を見極め、そこにたどり着くためのベストな手段を選定する。判断とはそういうものでなければならないと功は信じている。
彼が酒臭い電車に押し込められている頃、きっと自分は心地よいシャワーを浴びているに違いないと思いながら、功は東中野までの復路を楽しむことにした。
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